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並び咲く純白のユリの花 #2 異様な遭遇

2.異様な遭遇 「ね、梨花ちゃん。今日時間ある?」  奏子がそう言ったのはその日の放課後のことだ。 「やっぱ忙しい?」  そう言って奏子は上目遣いで私のことをじっと見つめた。  それは、どうしても自分のお願いを聞いてほしい時に奏子がよく見せる仕草だ。  ひょっとすると奏子は、今朝のやりとりも踏まえて何か私におりいって伝えたいことがあるのかもしれない。  そんなわけで、私は奏子と一緒に彼女の家に向かうことになったのである。  私が奏子の家を訪れるのはかなり久しぶりのことだ。  奏子の父親は医院を経営している。  ちょっと前まではいわゆる町医者といった風情であったが、このところ急激に経営の規模を大きくしているらしい。  今までとは少し離れたところに大きな土地を買って、新しく大きな病院を建てたそうだ。  そういうことを聞いてはいたものの、昔とは全く橋本医院の立派な建物を実際に見たときには、私は正直言っていささか驚いてしまった。  そのありようもはや地域の一大病院といってよかった。 「あっちだよ」  奏子は医院に隣接する敷地を指さした。  そこにはやや大きめの新築とおぼしき家が建っている。  そこが橋本家の居宅ということなのだろう。  奏子の後を追って、病院の敷地の隅を進んでいく。 「あーぃー、ぅあぁあ……」  異様な声が聞こえてきた。  病院の通用口の方だ。  ぎょっとして私はそちらに目を向けた。  通用口から少し離れたところを、車いすに乗せられた女性が運ばれていた。  車いすを押しているのは、どうやら介護用のアンドロイド……ケアドロイドのようだ。  女性の年齢は私たちとあまり変わらないように見えた。  病衣を着ているから入院患者なのだろうか。  だけどそれにしては、あまりにも異様な雰囲気だ。  髪は長く、手入れなど少しもされていないようでボサボサである。  顔色は青白く、目は虚ろでどこを見ているのかわからない。  だらしなく開いた口元にはよだれが飛び散らかったというか、垂れ流された跡が残っており、病衣の胸元も汚れている。  よく見れば生成り色の病衣はひどく汚れていて、あちこちに茶色いシミができている。  女性は脱力したように車いすに体を横たえているが、時おりよじるような奇妙な動きで四肢を動かしていた。  さきほどの奇声は彼女があげたものだった。  その異様な……ある意味ショッキングな光景に、私は思わず右手で口を押え息を呑んだ。  「うわ……すごっ……」  隣で奏子がぼそっとつぶやいた。  私はほとんど息をするのも忘れて女性の様子をただまじまじと見つめていた。  どうしたわけか、その異様な姿の細かいディティールまでもが、まるで流し込まれるかのように目に入ってくる。  女性は身だしなみなどという言葉とは無縁であるようだ。  鼻の穴からは伸び放題の鼻毛が顔をのぞかせている。眉毛などは言うまでもなくぼうぼうに伸びている。  不揃いに伸びたつめも汚れ、肉付きは普通だが薄白い肌もどうにも不健康な色合いに見える。  病衣の裾が長く伸びているので最初は気がつかなかったが、下半身には何も履いていない。  その長い裾の間からちらりと見えたものを見て、私は思わず息を飲んだ。  それはおむつだった。  ほんのわずかに見えただけだから、はっきりとはわからないが、おむつの表面ははっきりと黄色く汚れていた。 「お、おっ、ぅお……」  女性がさらに声をあげた。  あげる声にはもちろん意味などはまったくなく、何かを伝えようという意思の存在すらも感じられなかった。  私は、女性の姿が通用口から病院の建物の中に消えてしまうまで、ただ立ち尽くしていた。 「なんか、すごかったね……」  その奏子の言葉にも、私は反応することができなかった。  どうしてだか気持ちがどうしようもなく昂っていた。  心臓がドキドキしている。 「梨花ちゃん、大丈夫?」  私のただならぬ様子に気がついたのか、奏子がいたわるような調子で声をかけてきた。  我に返った私は、慌てて首を振った。 「ううん、何でもないよ」  そう答えたが、私の内心の動揺はおさまっていなかった。 (あれって……知的障害の患者だよね?)  しかも、見る限りかなり症状の重い部類の患者なのだろう。 「ちょっと驚いちゃったね。近所の精神病院の入所者さんだよ。ときどき検査とかで、こっちに来るの」  言いながら奏子は両腕を背中に組むと私の正面に回り、私の顔を覗きこんだ。  それはまるで私を落ち着かせようとしているようだ。 「そうなんだ……」  言いながらも、私は目を泳がせていた。  動揺を悟られたくなくて奏子と目を合わせることができなかった。 「今の子も何度か見たことあるよ」  やっとのことで、奏子の表情を伺うように目を走らせる。 「あの子さあ……生まれた時からずっとあんな状態らしいよ」  どきん、と私の胸がもう一度高鳴った。 「えっ?生まれた時から?」  思わず聞き返す。  それは、とても重く感じられる言葉だった。  奏子は、静かに頷いた。  私はしばし言葉を失った後、心にのしかかる重さを振り払うように言葉を絞り出した。 「……あの人は……これからもずっとあんな風、なのかな?」  奏子は肩をすくめた。 「どうだろねぇ……私には、わからないけど……ま、きっと一生あのままだろうね」  自分にはわからない、と言っておきながら奏子は断言するように言った。  だが無理もない。  それは病気や怪我とは違うのだ。  快復するとか、好転するとかという性質のものでもない。 (……もし自分があんな風だったら……どうなるんだろう……?)  唐突にそんな考えが私の脳裏に浮かんだ。  もし、私があんな風に……何も考えられず……何一つ自分でできることもなく……ただ生きているというだけの存在になってしまったとしたら……。  そこまで考えてから私ははっと気を取り直した。  どうしてか、先ほどから私の呼吸はどんどん速くなっていき、顔に熱を帯びているのが感じられた。  どうしてこんなに動揺してしまっているのだろう。  その、私の様子を探るように窺っていた奏子がおもむろに口を開いた。 「ねぇ梨花ちゃん。あの子、かなりキモかったよね?あうあう言っちゃって……変な風に身体動かしてるし……表情もすごくキモかった」  はっとして、私は奏子の顔を見つめた。  遅れて台詞の意味を認識し、私は唖然とした。  普段の奏子がそんな風に誰かをけなすように言うことは皆無といってよい。  その奏子が今のようなひどい言葉を口にするとは信じられなかった。    「……でも……可哀想じゃない……?」  やっとのことで、私は奏子に言葉を返した。  奏子は、何言ってんの?とでも言いたげな表情を浮かべた。   「どこが?だって、あれ、○○じゃないじゃん」  今度は吐き捨てるように奏子は言った。  私は、その言葉に頭を殴られたかのようなショックを受けた。   「……○○じゃないって……どういうこと……?」  のどが震えていた。  余りにもひどい言葉の、その強烈さに私は打ちのめされていた。  まるで自分自身が奏子に責められているかのようにすら思えた。   「そのままの意味だよ。アレは○○の姿をしてるだけ。△△と同じだよ。あ、△△だって自分のことは自分でするか。そうするとアレは△△以下ってことか」  私は思わず後ずさった。  いったい奏子はどうしてしまったというのだろう。  偏見というものから人は逃れられないにしても、ここまで憎悪を露わにする理由がどこにあるのだろうか。  あの女性はときどきここを訪れる、と奏子が言っていたのを私は思い出した。  もしかすると、過去に何かあったのかもしれない。 「そんなこと……」  胸の奥からこみあげてくる悲しさに震えながら、私は小さな声で呟いた。  そんなことない、と言おうとしたのか、そんなこと言ってはだめ、と言おうとしたのか、いずれにせよ言葉の最後はのどが震えて音にならなかった。  私の言葉を聞いた奏子はため息をついた。 「じゃあ梨花ちゃんはさ、ああいうのがさ、ホントに、生きている価値が、あるって思う?」  その問いかけに私はしばし押し黙ってしまっていた。  すっかり動揺している私には、否定する言葉が出てこない。 「だけど……そんなこと言うなんて……ひどいよ……」  やっとのことで、私はそれだけ言った。  鼻の奥がつんとする。  目尻が涙混じりになりつつある。  奏子は、じっと私を見つめた。  私にはその視線が耐えられないほど、冷たく感じられた。 「ひどくないよ……あんな、何の役にも立たない、ただ生きているだけの存在に、同情する必要なんてないよ……」  奏子は引き下がることをしなかった。  私の感情の昂りはもう限界に近づいていた。  これ以上奏子に言葉を返すことはもう私にはできなかった。  沈黙が、その場を支配した。 「なーんて。うそうそ」  急に声のトーンを上げて、奏子はそう言った。 「いや、冗談に決まってるでしょ。そんなこと、私、これっぽっちも、思ってないからね」  にっこりと笑みを浮かべて、奏子はそう続けた。  私は呆気にとられた表情で彼女を見つめた。  それは果たして、冗談の一言でなかったようにできるものなんだろうか。  奏子の笑顔は、私には取り繕うようなものにも見えた。  私には奏子の真意がわからなかった。  いたずらっぽいような笑みを浮かべたまま、奏子は大きな瞳で私のことを見据え、さらに続けた。 「ねぇ梨花ちゃん、もしかして……」  もったいぶるように、いったん言葉を区切る。 「……もしかして……あの子のこと……ちょっと羨ましいって思ったんじゃない?」  その言葉に、私はドキッとした。  奏子はいったい何を言い出すのだろうか。  私が何も答えられずにいると、奏子は笑みを浮かべたまま首を傾げた。 「ふーん、そうなんだぁ……」  震えながらうつむいて黙り込む私に、奏子は決めつけるように言った。  それから、すっと私の目前に顔を近付け、囁いた。 「ねえ、梨花ちゃん。知ってる?あの子さぁ、実は私たちと同じ歳なんだってさ」  それは本当のことかどうかはわからない。  私の脳裏に鮮やかに残る、先ほど目にした彼女の姿は、言われてみれば確かに私たちとさほど変わらない年頃であろう。 (そうか、あの子は、私と同い年だったんだ……)  そうだ。彼女だって、私と変わらない女の子だ。  それなのに、あの子は私たちとは全然違う人生を送っているのだ。  私たちのように学校に通ったりとか、楽しく友達と遊んだりとか……それだけじゃない……勉学やスポーツに熱中したり、おいしいものを食べたり、おしゃれしたり……そういうこととは一切無縁の人生を、送っているのだろう。  たぶん、普段は病室のベッドに横たわって、ただただ日をやり過ごす生活を、送っているのだろう。 「ねえ、気がついた?あの子の顔。梨花ちゃんとそっくり、だったよね?」  今、私が彼女に感情移入してしまっていることを、奏子は見透かしているかのようだった。  だけど、私とあの子は似ているはずもない。  脳裏に焼き付いた彼女の顔は、鏡でよく見る私自身の顔とは、まったくかけ離れていた。  視線の定まらない虚ろな目、手入れなどされていない髪や顔の毛、半開きに開いた口。  顔の筋肉にはまるで力が入っておらず、意思の存在がまるで感じられない奇妙な表情。  私とは、あまりにも違う。 (何を言っているんだろう?この子は。あの子は、私とはぜんぜん似ていないじゃない……)  一方で、私の頭の中には別の考えも思い浮かんだ。  私と彼女の顔があまりにも違ってみえるのは、顔の造作の問題ではない。  表情や、身だしなみの差によるものなのだ  仮に、彼女が健常な知性を取り戻したなら、ひょっとすると奏子の言う通り、あの子は私とよく似ているのかもしれない。 (年も同じ……顔もそっくり……)  そんな風に共通点を並べられると、どうしたわけか私には彼女がまるで、もう一人の自分のように思えてきてしまう。  だがもちろん、それはただの錯覚だ。  とまどう私の様子を窺いながら、奏子が再び口を開いた。 「……ねえ……もし梨花ちゃんが、あの子みたいになっちゃったら……どうする?」 「もし、私が、あの子みたいに……白痴に、なって……しまったら……」  無意識に、私は、奏子の言葉を繰り返して、かすかに呟いた。  奏子は、私の呟きを聞き逃すことはなかった。  微笑みを浮かべたまま、私に言い聞かせるように続ける。 「ね、ね、想像して。そうなっちゃったら、どうなるかな。もう、自分では、何ひとつできないんだよ?」  奏子が発した言葉のイメージが、私の頭の中に浮かび上がった。  薄暗い殺風景な、窓に格子のはめられた病室に置かれたベッドの上に、横たわっている私の姿だ。  シミのついた汚れた病衣を身に着け、虚ろな目で体を奇妙にくねらせている。  ときおり意味のないうなり声をあげても、誰一人気にすることは無い。  履かされたおむつは排泄物で汚れ、異様な匂いを放っている。  それだけではない。ほとんど入浴することもない全身からは猛烈な異臭が漂っていることだろう。  それでも、私は、そのことを何とも思わない。  自分の境遇について、考えをおよぼすことすら、私には、できないのだ。 「そんなの……」  私はほとんど泣き出しそうになっていた。  想像してしまったことに、私は恐怖を感じていた。  絶対に、そんな風に、なりたくない。  そんな強い想いとともに、罪悪感のような感情が強く湧き上がってくるのを感じていた。  そんな私の様子をみながら、奏子はにっこりと笑った。 「大丈夫だって。梨花ちゃん。心配しなくても。もし梨花ちゃんがそうなってしまっても、私がいつまでもずっと側にいてあげるからね」  やさし気な調子で、奏子はそう言った。 「え?」  思わず私は聞き返した。  きゅっと目を細めて、奏子は言葉を続けた。 「そう。白痴になって入院した梨花ちゃんの……私はその、隣に、いるんだよ」  先ほどまで泣き出しそうになっていた気持ちの高ぶりが、すっと消えていく。  代わりに私の頬はほんの少し熱を帯びたように思われた。  ややあって、私は口を開いた。 「あのね……私があんな風になるわけ、無いでしょう……」  私は何とか心の平衡を取り戻していた。  それはあり得るはずもない、仮定ではないか。 「ま、そりゃあ、そうなんだけど、ね」  そう言って、奏子は、あはは、とおかしそうに口を押えた。 「ホントに……なに言ってるんだか……」  私は呆れていた。  今日の奏子は、本当によくわからなかった。 (つづく)


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