朝の光が、カーテンの隙間から柔らかく差し込んでいる。
静かな部屋の中、昨夜の余韻だけがまだ体の奥に残っていた。
凜はすでに起きていて、キッチンから小さな音が聞こえる。包丁とまな板の音。
ほんのり漂う味噌汁の香りが、どこか現実に引き戻してくれる。
シャワーを浴びて、肌に残るぬるい水滴をタオルで拭いながら、鏡を見る。
昨日の自分と同じ顔なのに――目の奥が、少し違う気がした。
濡れた髪を撫でつけながらリビングに戻ると、凜がエプロン姿で振り返った。
「おはよう、啓斗。ちゃんと起きれたね」
「……うん。おはよう」
食卓には、焼き鮭と卵焼き、白いご飯。
いつも思うが、普段のちょっとS気のある性格からは想像できない、意外なほど家庭的な光景に驚かされる。
「朝はちゃんと食べなきゃ、ダメだよ」
凜はそう言いながら、お茶を注いでくれる。
「……いつもありがとう。美味しそう」
「ふふっ。まぁ、料理は好きだから」
笑う顔が優しすぎて、逆に落ち着かない。
僕の中ではまだ、昨夜の支配的な凜のイメージが色濃く残っているのに――。
◆
食べ終わると、凜が席を立ってリビングの棚から紙袋を持ってきた。
「昨日、啓斗から貰ったデパコス。せっかくだから今日使おうと思って」
「えっ……あの、昨日の……」
そう言って凜は僕の前に椅子を置き、手早くメイク道具を並べ始めた。
ファンデーション、パレット、チークブラシ――
すべて整然と並ぶ姿が、まるで儀式の準備みたいに見える。
「次からは自分で出来るように、ちゃんと覚えてね?」
「え、えっ……僕も本当にメイクするの?」
「当たり前でしょ。女の子になるって決めたの、啓斗なんだから」
「そんなこと……一言も言ってない……」
凜の声には、柔らかい笑みと、逃げ道を封じるような圧が混ざっていた。
頬にファンデーションを滑らせる指先が、心地いい。
だけど同時に――その“やさしさ”が怖い。
凜の支配はもう、命令じゃなくて“自然な日常”のように染み込んでいく。
「目を閉じて。……うん、いい子だね」
凜の声に従って目を閉じると、瞼の上にふわりと筆の感触。
香水のように甘い匂いが鼻をかすめて、心臓が早くなる。
「啓斗、昨日よりずっと女の子の顔になってる」
「や、やめてよ、そんな言い方……」
「ふふ、照れてる」
凜が笑う。その声だけで、顔が熱くなる。
メイクが終わると、凜は昨日買った、もう一着の地雷系のブラウスを差し出した。
白のフリル、胸元のリボン。
「昨日の服は夜のうちに洗っておいたよ」
「……あ、ありがとう」
「これから色んな服着れるよ。楽しみだよね」
「そ、それって……」
「いろいろと可愛いお洋服、買っておいてあげるよ」
胸の奥がずしりと重くなる。
“女の子の服”を差し出されているのに、拒否できない。
まるで僕が――自分から着たがっているみたいに。
◆
凜はスマホを触りながら、無邪気に笑う。
「今日は、啓斗が行った百貨店行くよ。昨日も言ったけど」
「本当に行くの?」
「昨日メイクしてもらった美容部員さんに、お礼言わなきゃ。ね?」
外に出ると、午前の日差しがまぶしい。
冷たい風がスカートの裾を撫で、素肌に触れる。
昨晩と違い、闇に隠れる事ができない。俯いていても顔が見えてしまう。
凜はそんな僕を横目に見て、軽く笑う。
「大丈夫、誰も気にしてないよ。啓斗が思ってるほど、みんな他人に興味ないから」
「……でも」
「まぁ、啓斗が可愛いから、つい見ちゃうかもだけど?」
「……っ」
その一言で、顔が一気に熱くなった。
何より可愛いと言われて、悪い気分がしなくなっている自分にも驚いた。
◆
百貨店に着くと、昨日のあのコスメフロアの匂いがまた鼻をくすぐった。
甘くて、どこか人工的な花の香り。
そこに立っているだけで、女の世界に迷い込んだような気分になる。
「……あ、いた。あの人だよ、昨日の美容部員さん」
凜が指差した先には、水野沙耶香(みずの さやか)さん――昨日、僕に“メンズ”メイクをしてくれた人。
彼女の視線が僕たちを見つけ、ぱっと表情が明るくなる。
「あっ!昨日のお客様」
沙耶香さんが駆け寄ってくる。
「昨日はありがとうございました。隣にいるのが彼女さんですね、昨日お誕生日だったんですよね?お誕生日おめでとうございます」
凜がすぐに笑顔で頭を下げる。
「ありがとうございます!こちらこそ、啓斗を可愛くして頂いてありがとうございます」
二人は相性がいいのか、初対面なのに会話が止まらない。
沙耶香さんは嬉しそうに頷く。
「そうなんですよ!昨日は女性向けのメイク体験を行っていたんですけど――『男の僕でも可愛くなれますか?』って聞かれて……。ちょっと驚いちゃいましたけど」
「えっ!?ちょっと……そんなこと言ってない!」
「え~?そうだった?」
凜が口元を押さえて、わざとらしく首を傾げる。
「啓斗、自分から女の子になりたかったんじゃん。正直に言えばいいのに」
「ち、違うって……!」
言い訳が喉の奥で空回りする。
足の先から頭まで、熱が一気に上っていく。
◆
沙耶香さんはくすっと笑って、
「それに今日は可愛らしい恰好ですね。素敵な彼氏さんで羨ましいです」
「い、いや、これは……」
言葉を探す間もなく、凜がまた口を開いた。
「あっ、彼氏じゃないんですよ。昨日から彼女になったんです」
沙耶香さんが楽しそうに笑う。
「まぁ、そうだったんですね。素敵な彼女さんですね」
笑いながら言われるたび、空気が熱くなった。
◆
凜は沙耶香さんとLINEを交換していた。
よっぽど馬が合ったらしい。
「沙耶香さん、素敵な方だったね。私も試供品とかいろいろ頂いちゃったよ」
楽しそうにスマホを見つめる凜の横顔を、僕は言葉もなく見ていた。
外に出ると、午後の光が眩しい。
街を歩くたび、視線が肌に刺さる気がして、スカートの裾を指先でぎゅっと掴んだ。
でも、凜はそんな僕の隣で、いつも通り穏やかに微笑んでいる。
「ねぇ、啓斗」
信号が赤に変わった瞬間、凜が小さく囁く。
「明日、大学でみんなに改めて“彼女”として紹介してもいい?だから女の子の服着てきてよ」
「……は?」
思わず振り向くと、凜の瞳がまっすぐ僕を見ていた。
冗談みたいな声なのに、その奥はまるで本気のように静かだ。
返事を探す間もなく、凜が僕の唇にそっと指を当てた。
「大丈夫。可愛いんだから。啓斗は、もう女の子なんだよ」
耳元で囁かれた声が、胸の奥をくすぐる。
否定しなきゃと思うのに、なぜか喉が詰まって言葉が出ない。
風がスカートを撫で、頬を掠める髪が甘い香りを運んでくる。
――違う。俺は、男で……。
そう言いかけた瞬間、鏡のようなビルの窓に映る“女の子”の姿が目に入った。
誰かのようで、でも確かに“僕”で。
胸の奥が、ほんの少しだけ熱くなる。
それが羞恥なのか、心地よさなのか、自分でもわからなかった。
――第7話へ続く。